運命の場所
ここ数日、京都に行ってました。紅葉を見るということが目的ではあるのですが、まあ、とにかく人が多くて、日本人ってこんなに紅葉が好きだったけ?と思ったりしましたが、桜同様自然が彩る美しさっていうんですかね、それらが人を魅了するんでしょう。ただ、僕はもういいかなと。人が多いのは苦手。難波もだめでした。
今回色々なところに行ったのですが、圧倒されたのは二条城でした。この二条城は、歴史の変換点において重要な役割を果たしています。もちろん、他のランドマークも歴史的に大きな役割を果たしているでしょうけど、それでも二条城というお城は日本史で見ると大転換期のイベントにその場所を提供しているのです。
まず何があったかというとここは、徳川家康が豊臣秀頼を謁見した場所なのです。
徳川家康という人は、関ヶ原で西軍を倒し、朝廷から征夷大将軍を宣下され、徳川幕府を開きます。この徳川幕府が出来たということはどういうことかというと、豊臣政権が亡くなり豊臣家は一大名に位置に転落したということです、事実上は。ただ、形式的には大阪には豊臣政権が存在するということであり、それを何とかしないと徳川幕府自体の存在が危ういという状況でした。それはなぜかというと、形式的には徳川家は豊臣家の家来ということにもなってたので。
そこで家康は豊臣秀頼に対して、俺が征夷大将軍になったからお前がどういう立場なのか教えるために、二条城に呼びつけます。豊臣秀頼は、秀吉の子飼い大名だった加藤清正と福島正則を連れて、家康との謁見に望みます。その時に家康は、秀頼の若々しさと自分が年ととも衰えていくということもあって、豊臣家を滅ぼす事を決めます。これは当時の徳川家の天下は、家康の実力で収められていたけれども、その後継である秀忠に対しては誰も何とも思ってないわけです。
というのは、織田家の天下を秀吉が実力で奪い取り、その豊臣家の天下を今度は徳川家が奪った。と言うことは、実力さえあれば天下を簒奪しても構わないという伝統ができてしまった。ところが天下をとったばかりの徳川家としては永遠に続かないと困るわけで、それを自分の代で完成させてしまおうと家康は思い、そして早々に豊臣家を滅ぼすことに決めたわけです。二条城には、秀頼が謁見されたところはわからなかったけど、一緒についてきた加藤清正と福島正則が待っている部屋は公開されてました。
話は変わって、それから300年経った後に、徳川慶喜が大政奉還を宣言したのも、この二条城でした。本来徳川将軍というのは、藩の家老とは会わないのです。身分が違いすぎるから。徳川将軍と会うことができるのは、大名と旗本だけで、家老なんていうのは大名の家来でしかないわけで、そんな身分の低い者たち、陪臣と言いますが、徳川将軍は会わないのです。
ところが、当時は風雲急を告げ、いつ、薩長が徳川家を朝敵として攻めてくるかどうかわからないような切迫した時期に、徳川慶喜が京都に駐在する各藩の家老を呼びつけ、今後幕府はどうしたら良いのかということをヒアリングする場を二条城に設けました。そのあたりが、徳川慶喜という将軍が今までの将軍と比べて優れているというところもあるわけなんですが、それに対して速やかに政権を朝廷に戻さないと大変なことになりますよ!と直接説得したのが、薩摩藩の小松帯刀であり、土佐藩の後藤象二郎でした。その大政奉還を立案したのが、坂本龍馬であり、結局龍馬にしても、このあと暗殺されますし、小松帯刀にしても、篤姫で瑛太君が大熱演しましたが、病死してしまう。後藤象二郎も、このあとはえらくはなったものの、失敗続きの人生でした。
そして、徳川慶喜は、ここでまさしく大英断をして政権を朝廷に返上することを決めます。内心としては何百年も政治を運営して来なかった朝廷に何ができるかという気持ちはあったでしょうけども、結果的に300年続いた徳川幕府から朝廷に返上した。その一報を待ち続けた龍馬は、その一方を効いた瞬間、徳川慶喜のために死んでも構わないと言って大泣きしたというのは有名な話です。つまり、大政奉還の立案を龍馬がして、それを決断したのが徳川慶喜であり、その痛みをこの二人のみが共有しているという気持ちがあったんだろうと、司馬遼太郎さんは言ってます。
面白いのは、大政奉還なんて出来るわけがないという薩長の勢力が主に大久保利通と岩倉具視が討幕の密勅を画策していて、さあ朝廷からおりてくるぞという前日に徳川慶喜が大政奉還をしてしまったことによって、幕府の武力討伐ができなくなったという切羽詰まった状況がありました。
その大政奉還を徳川慶喜が小松帯刀や後藤象二郎といった各藩の家老たちに向かって大政奉還をするよ!と宣言した場所が、二条城にはあり、その大広間を僕はこの目で見ることができました。ここに徳川慶喜が大決断した時の気持ちは、どうだったんだろうと思うと、僕も泣けてきました。
それは300年続いた徳川幕府の幕引きを自分がやらざるを得ないということに対する重圧もあっただろうし、それは悔しいという気持ちだけでは収まらないと思うわけです。歴史的には、結局色々とあり、朝廷側と幕府側の対立、具体的にいえば薩長と会津及び桑名藩の対立が先鋭化し、鳥羽伏見の戦いが起こり世に言う戊辰戦争がおこり、その後明治維新となり、新しい政治形態である明治政府が誕生します。この明治維新は、日本の歴史において大化の改新、鎌倉幕府樹立と並ぶ日本の大変革でありました。そのきっかけになるのが大政奉還であり、それがアピールしたのは、この二条城。僕はくまなく見てしまいました。