2016/06/13
昨日の軍師官兵衛ー死闘の果てに
昨日の「軍師官兵衛ー死闘の果て」にでは、黒田家と赤松家との戦いがあり、黒田家でも重要な家臣が戦死するというとても悲しい結果になりました。ただ、日本史的には織田信長が足利義昭を擁して入京するという重要なイベントがありました。あまちゃん的にいうと勉さんと観光協会の菅原さんが出ているので、そういう点でも楽しんでいます。
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信長の躍進
さて、織田信長という人は日本史的にも非常に評価がとても高いですよね。まず、彼が天才であったということと、彼が目指そうとしたことが、たまたま時代にマッチしていたということもあって、戦国時代を先導しました。また、人事的にも実力主義を徹底していたので、織田家自身が強力な大名になっていきます。一番わかりやすいのは、豊臣秀吉自体が司馬遼太郎さんに言わせると土くれが拾い上げて、才能を信長から見抜かれ、最終的には織田家の軍団長に上り詰め、信長死後は、色々とあったにしても天下を引き継いだということから見ても、普通の人ではなかったということは明白ですね。
織田信長は評価が高いことは高いのですが、この日本の歴史で彼ほど敵に対して苛烈だった人もいないし、殺される方に原因があったにしても、大変な虐殺を何度もやっていて、そこに危うさを感じていた人々はたくさんいて、本能寺の変にしても、僕は信長の不徳の致すところだったと思ってます。
また、信長の攻め方は火攻めと言われましたが、秀吉の戦いは水攻めと言われました。司馬遼太郎さんはこの秀吉の水攻めは、信長への痛烈な批判だったと言ってますね。秀吉は天下を取るまでは敵をできるだけ殺さないように心を配り、これが彼をして天下を取らしめたと司馬さんは言ってます。僕が思うに、秀吉の参謀というのは天下を取るまでは黒田官兵衛がやり、天下をとってからは石田三成が秀吉の側近として権勢を極めた。官兵衛は人を殺すことを嫌がるというところもあったので、それが天下取りまでの戦いに大きく影響をしたと思うのです。
信長と義昭の対立
話を信長に戻しますと、信長と足利義昭は義昭が征夷大将軍になるまでは蜜月が続きますが、その後決裂をして、時代が混乱します。それは信長は自分が天下を取ろうとしてますし、義昭は征夷大将軍になった以上自分が天下を掌握しようとして、そこで大きな対立となる。信長にすればあくまでも義昭は利用出来るだけ利用して、最終的には放り出すつもりだし、実際にそうなりました。
義昭自身は、兵力が全くないから実力自体はないのですが、形式としては征夷大将軍である以上武家の棟梁であるという意識がある。ところが戦国は下克上ということもあって、誰も征夷大将軍が偉いとは思ってはなくて、権威だけ高いという自己矛盾を抱えていて、その認識が義昭にないということもあって、今後信長と義昭がドロドロの戦いをしていくのですよ。
それを苦悩するのが、信長と義昭を繋げた明智光秀で、光秀はこれが縁で織田家の家臣となり、そこにまた色々なドラマがあり、そのあたりは司馬遼太郎さんの国盗り信長編に詳しいです。
軍師官兵衛は、織田家とつながらないとはっきり言って面白くないです。なので、今日もあの時代の歴史の背景をについて書きました。
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