2016/06/13
昨日の軍師官兵衛ー決断のとき
昨日の軍師官兵衛では、黒田家にとって重要な人物が登場しました。安国寺恵瓊と後藤又兵衛で、今日は彼らのことを少し書こうと思います。あとは、やはり黒田家のストーリーがだらだらしていて、この辺りが視聴率が低迷している原因なのかと思ったりします。
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安国寺恵瓊について
安国寺恵瓊は司馬遼太郎さんのこの頃の小説には必ず出てくる人で、大変な人物眼のあった人です。どれだけ世の中を見据えていたかというと、信長が斃されて、秀吉が台頭するであろうということを1575年に予言しています。
信長之代(のぶながのだい)五年三年者(は)持可被持候(もたるべくそうろう)。明年辺者(あたりは)公家などに成(な)さるべく候かと見及申候(みおよびもうしそうろう)。左候(さそうらい)て後(のち)、高ころびにあおのけに転ばれ候(そうらわん)ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候
どういう意味かというと
信長の世は3年や5年は保つし、来年は公家の位階を得もしようが、しかし、派手派手しくあおむけにひっくりかえるように見えます。そして秀吉はなかなかできる人物ではないかと考えております
というものです。ちなみに本能寺の変は1582年に起きていますし、秀吉の天下統一が1590年なので、この辺りは凄いですし、司馬遼太郎さんも戦国時代の作品では必ずこのエピソードを取り上げます。彼の人生もこの後数奇で、毛利家の外交官でありながら、豊臣家の大名となりますが、関ヶ原では西軍に付き、石田三成、小西行長らとともに処刑され、四条河原で晒首となります。
織田家が中国攻略をしていく上で、黒田官兵衛が大活躍をするのですが、毛利家では安国寺恵瓊が活躍をします。例えば、織田家の悪評を流すことで地理的な近さがあるにしても、姫路以西を毛利支持にしたのは安国寺恵瓊の手腕ですし、毛利家の大大名だった宇喜多直家を織田家に引き入れたのは黒田官兵衛ですし、織田家と毛利家の様々な交渉を直接やりあったのは、黒田官兵衛と安国寺恵瓊なので、この二人は非常に濃密なやりとりをしています。この辺りは、播磨灘物語の3巻と4巻に詳しく書かれていますよ。
なお、安国寺恵瓊は名前の通り僧侶で、紅葉で有名な東福寺の住職にもなっていて、退耕庵という塔頭がありますが、それは彼が再興したものです。この退耕庵で関ヶ原の密議を石田三成などとしたと言われています。
ちなみに、こちらが東福寺の紅葉。シーズンは駅から東福寺に行くまでが大変なくらい多くの人が訪れます。
後藤又兵衛について
後藤又兵衛もかなり数奇な運命なのですが、彼は勘兵衛に目をかけられ、本人も資質があったということもあって、黒田家の侍大将となり、関ヶ原の合戦で大活躍をします。その後官兵衛が亡くなると、官兵衛のいない黒田家にいる意味は無いということもあり、黒田家を出奔します。
この頃の又兵衛は名士でしたので、様々な大名から着てほしいという声がかかるのですが、黒田長政(官兵衛の息子:幼名は松寿丸)が奉公構をしたことでどの大名も雇い入れることができなくなり、又兵衛自身も京都で浪人として過ごします。
その後、徳川家が豊臣家を討滅するべく様々な仕掛けをかけてきて、結局大阪冬の陣、夏の陣の際に大阪城に入城し、豊臣側の武将として真田幸村らとともに大活躍をしますが、結局日本中の大名が攻めてきたということもあり、戦死します。普通に黒田家に使えていれば、家老として安泰だったものの、官兵衛への魅力への憧憬もあり、結局自滅をしてしまった、僕はなんとなく彼の気持ちがわかりますけどね。
後藤又兵衛については司馬遼太郎さんが軍師二人という作品で描かれています。面白いです。
昨日のストーリー的には、冒頭にも書きましたが、まだまだぬるいですね。来週は官兵衛が秀吉との出会いがあるので、どういう描かれ方をするのか、楽しみにしておきます。