2016/06/06
小保方晴子と瀬戸内寂聴の対談を読んで、つくづく捨てる神あれば拾う神ありだなあと思った次第です
今朝、バタバタしている時に、ニュースをチェックしていたら、瀬戸内寂聴さんが婦人公論で小保方晴子さんと対談をしているということを知りました。僕はこの二人のことはとても好きなので、この対談の内容知るべく、Amazonで購入したら、夕方には届いてました。
Contents
小保方晴子さんは元気になったような印象です。
内容については、ここでは書きませんが、写真を見る限り小保方晴子さんは少し元気になったようですね。
ザックと読みましたけれども、一連の小保方晴子さんの騒動に関して言えば、何かちがう力動いているということは間違いなさそうです。つまり、小保方晴子さんの実績があればあるほど、それを迷惑がる勢力があるんだろうということです。それがなんだかはわからないけれども、大きな力であることは間違いない。若山教授はそれがわかったから、手のひらを返して、小保方晴子さんを攻撃したということです。
捨てる神あれば拾う神あり
この記事を読んで思ったことは、捨てる神あれば拾う神ありということです。この場合、拾う神と言うのは瀬戸内寂聴さんで、彼女は宗教者だから、宗教者として苦しんでいる小保方さんに当然手を差し伸べたということだと思うのです。
瀬戸内寂聴さんが、小保方晴子さんに手を差し伸べたというのは、瀬戸内寂聴さん自身が痛みのわかる人であり、その痛みを経験として知っているからです。この対談にも書いてありましたが、落ち込んでいる時に手を差し伸べてくれる人が本当の心を持っている人だということを書いてありましたけれども、僕も本当にそう思いますね。
小保方さんは、STAP細胞で一人だけ袋叩きに合いました。あれは、見ず知らずの人間から罵声を浴びるというのは大変つらかったと思いますね。僕自身は、このブログを書いていて、たまに炎上しますけれども、その時の辛さと言うのはないです。ああいうのは、ある人が批判し始めると、付和雷同みたいな感じになって、オレもオレもみたいな感じで、叩き始めるものなんです。それを言ってるほうが、すっきりするかもしれませんが、言われている方は、非常に心に痛みを感じるのですよ。それは小保方さんの場合は、何かを使ってやられたわけだから、これはきつかったんじゃないかなあと僕は思います。
反小保方の異常な小保方晴子叩き
とにかく、小保方さんのことを話題にすると、なんか無心に彼女の至らなさを持ち上げる人がすごくいるんだけれども、あの非寛容さはなんだろうって思います。そんなにあなたは失敗をしたことがないのかと聞いてみたくなるし、人は失敗をするから、多くのことを学んで現在に至るんじゃないかと思うのですが、反小保方の人たちは、とにかく小保方さんを叩くことで溜飲を下げてる感じがします。
理由もなく相手を攻撃することは絶対に許されないし、それを大勢で叩くというのは、絶対に人としてやってはいけないことです。よく因果応報ということを言いますけれども、僕も自分の人生でそういう思いを何度か体験していますけれども、その後あまりいい思いをしている人はいない感じがしますね。まあ、小保方さんを理由もなく叩いた人は必ず何かしらのしっぺ返しがあります。
婦人公論はいい仕事をしたと思う
瀬戸内寂聴さんはそういうこともよく承知をして、今回小保方さんに手を差し伸べたんだと思うし、小保方さんも救われた気持ちになったと思います。婦人公論の写真を見ると、随分吹っ切れた感じがして、良かったと思う。出版社はこういう仕事をするべきですよね。イエローペーパーはひたすら一つの方向のものしか流さないから、我々愚民はそれに惑わされてしまう。でも、すべてのことにいろいろな側面があるんだから、そちらのことも聞くという姿勢を示すことが大人の度量というものだと僕は思うのです。
実際に小保方晴子さんがどういう人なのかということは、著書の「あの日」でも、この対談を読んでも、普通のお育ちの良く、知的な女性という印象です。そういう人が、あんな程度の低いことをしないし、もしやっていたとしたら、改めて、STAP細胞のウェブサイトを立ち上げるわけがないのです。とにかく、少し元気そうな感じで我々の前に登場してくれて安心しました。頑張って欲しいです。