2016/06/08
「花燃ゆ」をさらに楽しむために司馬遼太郎作品「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 松本村
今年からスタートした井上真央ちゃん主演のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」を楽しむために吉田松陰を知るべく司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」をGoogleマップを使いながら、読んでみることで地理的に理解をしてみようと言う目的の読書記を書きました。
Contents
松本村
内容としては、本に登場する人物や場所などを調べて行こうと思います。
長州藩とは?
まずは長州藩とは。江戸時代においては外様大名として、今の山口県を本拠地としましたが、戦国時代においては広島を本拠として山陽山陰11カ国を有する戦国大名でした。ところが、関ヶ原の戦いにおいて毛利家は石田三成側(西軍)の盟主として、徳川家に敵対したことが、結局山口県の地域に追い詰められてしまったという歴史がありました。そして、幕末に革命勢力として登場するわけなんですが、そのあたりを司馬さんが上手にまとめています。
その毛利氏長州藩が、幕末にいたって再び歴史に登場し、最大の革命勢力になり、ついに幕府をたおし、封建制度をつきくずし、この国に新しい時代をまねきよせる主導勢力になった。
「それも、松蔭以降である」
と、よくいわれる。
これはどういう意味かというと、
松蔭吉田寅次郎という若者が萩城下の東のほうの郊外の松本村の松下村塾で子弟を教えてからのことである、という意味である。その以前の長州藩というのは、ただの大名にすぎなかった。
ということですね。
つまり、吉田松陰が出現をして、彼が松下村塾で人材を育てて、その人材が革命化して、幕府を倒してしまったということです。
Googleマップで松下村塾をチェック
この場合に、この松下村塾とはどこにあるのかというと、萩市の松蔭神社内にありまして、
こちらをGooglマップのストリートビューで見てみると、
松蔭神社の敷地をGoogleマップでみてみると、結構大きな敷地ですね。
一番上の地図を見て面白いのは、ちょうど松下村塾のマキタに伊藤博文の旧宅がありますね。
意外と不便な場所にある松下村塾
この松下村塾、結構不便なところにありまして、電車で行くには、「東萩駅」から歩きます。どのくらい歩くかというと、Googleマップでチェックしてみたら、びっくり!17分!!
じゃらんで「松下村塾」と検索すると表示されたホテル
ここに行くにしても山口県のどこかを拠点にしないといけないと思うので、じゃらんで「松下村塾」で検索をして、表示されたのが次の4つのホテルでした。
このホテルは、東萩駅にあるので、近いですね。地図を貼っておきます。
車で8分。タクシーで行った方が良さそうな感じ。
湯田温泉 西村屋 中原中也ゆかりの宿
ここから、松下村塾へは2時間ほどかかりそうです。
ここが一番近いです。車で5分。もし僕が松下村塾に行くとしたら、ここかなあ。
杉道助
この項「松本村」を読んでると、杉道助という人の話題になります。苗字からわかるように杉家の人ですね。杉道助という人のおじいさんが松蔭の兄である、杉民治。杉道助という人は、僕はよく知りませんでしたが、
杉道助 |
この方を司馬さんの文章で紹介をすると、
しんから世話ずきで、事業家のくせに自分の事業よりも他人の事業のめんどうをみる方がすきで、大阪の商工会議所の会頭を何期もつとめ、名会頭といわれた。
中略
杉道助というこのあらゆる意味での奉仕家も、死ぬまでついに老爺の顔をもたず、いつも少年のようにむきな顔をしていた。
司馬さんは、タクシーの運転手さんと杉道助の話をして、運転手さんが杉道助のお墓を選別するときの委員を乗せて案内をしたそうで、その縁で杉道助の墓を見て、ここで、松蔭が杉道助さんの大叔父であるということを思い出すという事が書かれています。その杉家の墓があるのが、
住所で言うと、「山口県萩市椿東243-31」
こちらにいくと、墓所の案内図があります。
司馬さんによると、松蔭が生まれた杉家が「異様」に明るいのは、松蔭の母お滝が明るかったせいであると記していて、
彼女の息子のなかから、松蔭寅次郎という、底抜けにおさない(自己の思想や主義の純化と行動化にのみ忠実な)人物が成長し、やがて国家と藩の罪人になり、幕府の手で刑死した。これほど凄みのある不幸はなく、ふつうならこの不幸は家を暗くしたであろう。が、彼女は、自分の内孫、つまり長男民治のこどもたちに、
「松蔭叔父にあやかるのですよ」
と、つねに言いくらした。
という女性で、内心はどうだったのかと考えてしまいますけどね。
なぜ松蔭だけ吉田姓なのか
最後にどうして松蔭だけ、吉田姓なのかということで、この項は閉じられています。これは、杉家が元々吉田家から派生した家で、松蔭の叔父である大助が吉田姓を継ぎ、松蔭は幼い時に吉田家の養嗣子になったから、松蔭が吉田姓を名乗ったということですね。この大助が松蔭5歳の時になくなっているので、松蔭は幼くして当主となり、杉家で養われました。その吉田家は大番組上士であり、藩制の山鹿流兵学師範をつとめる家のため、松蔭もその後継者になり、それが色々と彼の人生に大きく影響を与えるようです。