2016/06/08
「花燃ゆ」楽しむために「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 玉木文之進
今回の項は、「玉木文之進」。強烈な教育者で、吉田松陰はこの人に育てられました。後の事になりますが、日露戦争で有名な乃木希典将軍も玉木文之進から教育を受けています。今日もGoogleマップで深読みをしていきます。
Contents
松本村の場所
この本の中では
こどもたちといえば、松蔭は近所の子とあまり遊んでいない。萩城下の東郊であるこの松本村…
とありますが、まず、萩城と松本村の位置関係をチェックしてみます。Googleマップで計測をすると、約6km。車でも相当かかります。
玉木文之進の家
この松蔭の家の北東に叔父の玉木文之進の家がありました。
すごいですね。Googleマップに載っています。載っているということで、当然ストリートビューの地図もありまして、
玉木文之進とは
玉木文之進という人物は、色々と逸話の多い人物でして、司馬さんの文章を借りると、
文之進のふんいきには、狂気としか言いようのないものがあり、そういう人物がもっている磁気のようなものは、こどもの感覚にも痛いほどひびくらしい。乳呑児(ちのみご)までそうである。松本村の百姓の母親はこどもがむずかると、
「それ、玉木先生がくる」
といえば、わけがわからぬながら、びくっと泣きやんだりした。
ま、一種の変わり者として恐れられた人物だったということが、これでもわかります。
松下村塾を開いたのは、玉木文之進
元々松下村塾を開いたのは、この玉木文之進で、そのことも司馬さんの文章では
松下とは村名の松本からとっているから、要するに松本村学校というふうな命名であり、それ以外の哲学的な意味などはない。
松蔭が後に藩に幽閉された時に、玉木文之進から引き継いで、松下村塾を運営しており、松蔭の刑死後は当然のように玉木文之進が松下村塾を引き継いでいます。
この玉木文之進の松蔭への教育は極めて苛烈だったことは有名ですが、先週の「花燃ゆ」でも玉木が松蔭をボコボコにするシーンがあり、それを父の百合之介や母のお滝が松蔭がボコボコにされているところを何も言わずに眺めていましたね。どうして、父親が自分の息子を実の弟である玉木文之進が暴力を振るっていることに対して黙っているんだろうという、当たり前の疑問を持っていたのですが、この項にその解答らしきものが書いてありました。
なぜ玉木文之進が松蔭に学問を教えているのかというと、もっと深く言えば、玉木文之進が松蔭に何を教えているのかというと、山鹿流兵学です。ところが、玉木文之進は政治学が専門ながら兵学にも通暁しているということもあり、藩の命令で松蔭を教えることになっていたのです。それは松蔭が藩の山鹿流師範家の吉田家を継ぎ、その当主である吉田大助が死んでしまったため、その家学が断絶することを恐れた長州藩が玉木文之進らに、松蔭に引き継がせるように命令したことで、玉木文之進が教えることになりました。藩の命令ですから、松蔭が何をされようと両親が何も言えないのはそういった背景があったわけです。
ただ、玉木文之進の教育には暴力が伴います。どうして暴力をふるうのかというと、書物のひらき方がぞんざいであったとか、書物を読むときに肘が緩んでいたというような些細な事が多く、司馬さんは
「かたちは、心である」と、文之進はよく言った。形式から精神に入るという教育思想の熱狂的な信奉者がこの玉木文之進であったであろう。しかしここまでの極端さは、やはり一種の狂気としかおもえない。
と書いてます。ただ、玉木文之進は暴力だけの人物ではなく、教え子が病気になった時はつきっきりで看病をしたり、毎日のように訪ねて様子を見るという、優しい一面もあったようです。
玉木文之進の教育方針
学問や技術よりも、
ー侍とはなにか。
ということを力まかせにこの幼い者(松蔭のこと)にたたきこんでゆくというのが、かれの教育方針であるらしかった。
玉木文之進によれば、侍の定義は公のためににつくすものであるという以外にない、ということが持節であり、極端に私情を排した。
というもので、武士道というものを追求したひとですね。確かにこの人からは、松蔭が生まれ、乃木希典が生まれました。
明倫館の場所
一方で松蔭は、8歳で藩校の明倫館で教授見習となっています。明倫館はどこにあったかというと、萩市役所に隣接してます。
明倫館と松蔭の家の位置関係はというと、距離で言うと3.7キロ。結構あります。
後年の玉木文之進
その松蔭は10才で藩主の御前で講義をしました。その講義の内容は山鹿流の「武教全書」のうちの「戦法篇」で、その講義は殿様が感嘆したほどの名講義だったそうです。この時に殿様から師匠は誰かという時に、松蔭は玉木文之進の名前をあげ、その結果文之進は「八組証人役」という官職につき、松下村塾を閉じました。その後の文之進はというと、役人として累進していきました。さらに文之進のことを書くと、
- 乃木希典を教育し
- その弟正誼を養子にして、同様の教育をほどこした
- 養子の正誼が明治九年前原一誠の乱にくみし
- その責任をとって自害
- その介錯を松蔭の妹お芳がしました
苛烈な人生でした。