2016/06/080 Shares

「花燃ゆ」楽しむために「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 長門の海ー平戸へ

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世に棲む日日(一)長門の海

松陰は、相変わらず恐るべき教育を玉木文之進らから受けています。それは松陰が吉田家の当主であるために、山鹿流兵学を習得しなければならず、そのため玉木文之進は、藩からきちんと教育をせよと命令をされているからでした。

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長門の海

この項を読んでいると、新しい名前が出てきまた。
養父の門人である

  1. 渡辺六兵衛
  2. 石津平七
  3. 浅野小源太
  4. 佐藤寛作
  5. 林真人

です。この5人について調べてみましたが、一人一人はその後何をしたのかということはよくわからないのですが、確かに玉木文之進以外に、この5人の門人が松陰を育てるべく、後見人になるよう命じられたのは確かなようです。

このように松陰は長州藩が藩ぐるみで生みあげた観があります。司馬遼太郎さんの文章を引用すると、

松陰というこの若者はどうやら家族や一族だけでなく、反ぐるみで生みあげた純粋培養といえるかもしれない。藩ぐるみということのひとつの例として、藩主までが参加していた。

確かにそうで、この松陰対しては12歳、14歳、16歳、17歳、18歳の時に藩主慶親が自ら明倫館に足を運んで松陰をテストして、松陰が見事だったのは、それをしっかりクリアしてしまったことであり、藩主も感じ入って褒美として「七書直解」を与えました。

松陰は明倫館で9歳の時から講義をして、さらには15歳の時に山田亦介から長沼流兵学、翌年飯田猪之助から西洋陣法を学び、19歳の時に玉木らの後任の任務を解き、独立の講師となり、藩の役職につきました。職名は「御手当御内用掛」というもので、これは藩主のための国防情報偵察員となり、「沿岸の防備状態を視察せよ」という命令を受けました。

松陰の長州藩の地形偵察

そこで松陰は、萩城から長門〜阿川〜角島と、地形偵察をしました。その足跡をGoogleマップでおこしてみると、60キロ強の距離でした。

平戸へ

 

世に棲む日日(一)平戸へ

世間を少し見た松陰はさらに遊歴をしたいという気持ちになり、家族や師匠たちにも相談をして、みんな積極的に賛成をしてくれたそうです。遊学先は平戸で平戸には松陰の家学である山鹿流兵学の権威、山鹿万介、葉山佐内がおり、彼らに学ぶことで学祖素行の著書の読み方を聞き出したく、その旨を班長に願い出て、藩も許可を出した。

松陰の移動距離:自宅から四郎河原

松陰はまず初日自宅から四郎河原まで歩いたということになってます。すごいです。48キロ。地図で見ると、

松陰の移動距離:四郎河原〜小月〜下関

二日目は下関を目指したけれども、初日歩き過ぎで小月で歩けなくなり、結局小月で馬に乗り、下関へ向かいました。それでも40キロ弱あります。

本陣伊藤邸跡

下関についた松陰は、伊藤木工助の屋敷に泊まったものの、風邪をひいてしまい、伊藤のすすめもあり伊藤家に泊まることになりました。この伊藤家は藩の指定旅館担っているということもあり、「本陣伊藤邸跡」として残されています。

ストリートビューもあります。

下関駅からは歩けません。車で9分ほど。


松陰は診療に来た医者尾崎秀民と知り合い、尾崎から郷里の日出藩家老帆足万里の著書「入学新論」と禁書「東潜夫論」を借りて読み、翌日関門海峡をわたり、文字に上陸をしました。

松陰の移動距離:下関〜門司

体調が回復した松陰は、翌日関門海峡を経て、門司にわたりました^^お疲れ様でした。