【2021年12月関西旅行】中高年一人旅 Vol.2 鈴虫寺・西芳寺〜嵐山観光(天龍寺、竹林の小径、常寂光寺、トロッコ列車)
関西旅行2日目は、京都に移動します。僕は貧乏性なので、年甲斐もなくスケジュールを詰め込んだので、この日(12月3日)は結構忙しいです。午前中に鈴虫寺と西芳寺に行き、午後は嵐山観光をして、その後電車で祇園まで移動して、夕飯を食べるという超過密スケジュールです。
Contents
京都センチュリーホテルにした理由
今回の関西旅行は、もともとはキング・クリムゾンの大阪公演を見るということが目的で、翌日には東京に戻る予定でした。ところが、相方がせっかく関西まで来たんだから京都に行ってみたらというアドバイスもあって、京都で観光をすることにしました。
京都を観光する上でもう一つ大事なこととしてはホテルです。今回ホテルを選ぶにあたっては、帰りは新幹線で帰ることになっていたので、京都駅に近いということが重要でした。個人的には京都ホテルオークラが好きなのですが、明らかに京都駅に行くとした場合に、何かしらの交通機関を利用しないと行けないので、今回は選択から外れました。京都駅から近いということになると、色々と調べてみると京都センチュリーホテルが近いということがわかり、また、駅前のバスターミナルに近いということと、あとは、7条駅に行く場合に宿泊しているとバス料金が安くなるということもあって、このホテルにしました。なお、宿泊は一休から予約しました。一休は時期によってセールをしていることもあるので、今回もそのセールで予約することができました。
今回の旅で観光する場所について
今回京都に来たことでどこに行こうかと考えまして。もともと清水寺とか京都に東の方はよく行くのですが、嵐山に行ったことは一度もないということもあって、今回は嵐山を中心に観光をしようと思っていました。それと僕も貧乏性なので、嵐山方面に行くのであれば、西の方に他に何か調べてみると、嵐山よりも少し南にある苔寺西芳寺があり、西芳寺の近所には鈴虫寺があるということがわかったので、嵐山にこの2つのお寺を追加しました。
願い事が叶う鈴虫寺
朝の8時半くらいに京都に着いて、ホテルはもちろんチェックインできませんので、荷物だけ預けて、京都駅前のバスターミナルに向かいました。乗るバスは73番系統、「苔寺・すず虫寺行き」のバスです。
このバスはとても不思議で、まず嵐山まで行ってから、南に降りていくというルートです。どうして、先に鈴虫寺まで行ってから嵐山に行かないんだろうと今でも不思議に思っています。いずれにせよ、京都駅から1時間ほどで鈴虫寺のバス停に到着をしました。
鈴虫寺のバス停の前には、「かぐや姫竹御殿」という木造の建物が建っていました。中には入れないようでしたが、いわくのありげな建物でした。
鈴虫寺はこの脇の道を歩いて、橋を渡ると鈴虫寺への階段があり、それを登ると鈴虫寺があります。
行くと、もう多くの人が来てました。このお寺はどんな願い事でも叶うということで、そのお願いをするために皆さん、来られてるんでしょう。このお寺では入り口で拝観料を支払うと、本堂に上がります。本堂にはこの寒い冬にも関わらず前方で鈴虫が鳴いています。お坊さんによると、年間通して鈴虫を育てるのにかなりの日数がかかったようで、やっと年間通して鈴虫を育てられることができるようになったとおっしゃっていました。
本堂ではまずお菓子が配られました。こちらはコロナということもあって、お持ち帰りくださいということでした。
本堂ではお坊さんの説法があります。ただ、一般の説法とは違って、小難しい話など無く、コミカルにしかもリズミカルに話をするので、しっかり聞き入ってしまうので、僕は話が上手だなあと感心しました。お坊さんが今回鈴虫寺には何回来られてますか?と聞くと複数回来られている人が殆どで、最多の人は今回で7回目という人がいました。それだけ願い事がかなっているんでしょうね。すごいなあ。お坊さんによると、77回来ている人が最高だと言ってました。
鈴虫寺の山門脇に立っているのが、願い事を叶えてくれるお地蔵様です。このお地蔵様にお願いをするのですが、具体的な願い事と自分の住所を伝えるようにするそうです。このお地蔵様は他のお地蔵様と違ってわらじを履いています。どうしてわらじを履いているのかというと、このお地蔵様は願い事を叶えに家まで来てくれるからだそうです。僕の相方も2回、ここに来て、やはり願い事がかなったということもあって、彼女のその御札をおいて、新しい御札を2つ購入しました。
圧倒的に美しい絵画のような西芳寺
西芳寺は、鈴虫寺の直ぐ側にあり、鈴虫寺から歩いて数分のところにありました。そもそも今回の京都旅行をするために調べていると、この2つのお寺がほぼ同じ地域にあるということもあって、観光に来たというところはあります。
さて、西芳寺は拝観希望の人がとても多く、西芳寺を拝観するためには、事前に申し込み保必要があります。手段としては、往復はがきで申し込みというやり方とネットで申し込むという方法なのですが、僕はネットで申し込んでも良かったのですが、往復はがきで申し込みをしました。とりあえずリンクを張っておきます。
まず往復はがきに西芳寺の住所とこちらの拝観希望日と代表者の情報を記入します。
数日後には参拝証が届きました。
西芳寺の拝観料は3000円と破格なのですが、これには写経代も含まれています。なお、後でこちらも貼り付けますが、とにかく西芳寺のお庭は本当に素晴らしいというか、なかなかこういう自然な美しさを作庭しているのかどうか、よくわかりませんが、ちょっと日本では見たことのない風景を目にしました。
西芳寺の入り口にはこのような看板があり、とても歴史の古いお寺であるということがわかります。
調べた限りですが、西芳寺のある場所というのは、もともとは聖徳太子の別邸があった場所なんだそうです。聖徳太子ということになると、奈良時代よりも古く、万葉集以前の日本ということですから、その古さというのがわかりますよね。蘇我入鹿あたりが覇権を握っていた時代です。その後日本の歴史に名前を残した人がどのような足跡を残していったのかというと、聖徳太子のあとですと、平安時代に空海が入山し、鎌倉時代には法然が浄土宗に改宗しています。その後寺は荒廃するのですが、室町時代に夢窓疎石が西方寺を西芳寺に改め、今の西芳寺の基礎を固めたとされています。夢窓疎石は足利尊氏の師ということもあり、字社に関して様々な実績を残しています。鎌倉のお寺にも夢窓疎石が関与したお寺は結構あったと記憶しています。
話をもとに戻すと、西芳寺の山門の受付で先程の拝観証と拝観料を払うと、まず、本堂に向かいます。本堂では写経をして、それをお寺に収めます。本堂も大変素晴らしい建物なのですが、中の撮影は禁止になっています。その後は自由にお庭を見ることができます。
少し歩くと入り口があり、その木戸をくぐると、観音堂があり、その前に皇后陛下行啓記念樹の松が植えられています。僕はあまり詳しいことはよく知りませんが、見事に手入れされていると思いますね。
観音堂の前には西芳寺庭園の石碑があり、これから庭園内を散策します。
なお、西芳寺の庭園は
西芳寺の庭園は2つあり、上段と下段に別れています。上段は枯山水庭園んで、こちらは非公開となっています。公開されているのは下段の黄金池を中心とした池泉回遊式庭園です。
少し歩き始めると見事な苔が。
更に進んでいくと、小さな建物が見えました。こちらは湘南亭と言って、千利休の次男である千少庵により建立されたお茶室で、国の重要文化財に指定されています。
更に近づくと石碑が2つありました。
右の小さい石碑が千少庵とあり、左の大きな石碑には岩倉具視と書いてありました。西芳寺でまさか岩倉具視の名前を見るとは夢にも思っていなかったので、とてもびっくりしましたが、後で調べてみると、幕末のギリギリの段階で岩倉具視は倒幕の巨魁ということで、幕府からの刺客に狙われたため、西芳寺に逃れてきたそうです。
しばらく歩いて、黄金池の方を見るとびっくりするほど美しい風景が目に入ってきたので、写真を撮りました。
この風景は、モネの睡蓮を思わせような風景だと思いませんか。モネは睡蓮の水彩画をライフワークのようにしていましたが、特にジヴェルニーにあるモネの庭を水彩画のモチーフにしましたけれども、もし、モネがこのお寺のことを知ったら、僕はきっと心を奪われたんじゃないかと思いました。
モネの睡蓮は、以前パリのオルセー美術館で見たものになると、
おそらく西芳寺の風景は、モネの作品を見る限りこの美しさに心を奪われるんじゃないかと、僕は勝手に想像していますが、それほど美しい風景で、僕はこの年になるまで見たことがありません。もう一枚アップします。
次の写真は、木漏れ日と池の水面の雰囲気が、自然のコントラストが構成されていて、まるでここに妖精がいるんじゃないかと思えるくらい、すごい風景だと思いました。
しばらく歩いてると、右手の方に目を移すと竹林がありました。こちらも西芳寺で竹林に遭遇するとは夢にも思っていなかったので、嬉しいショック。竹林は後で嵐山でも見に行きますが、その前にいいものを見ることができて、すごく嬉しかったです。
30分近く歩いて、観音堂の入り口をくぐると、庫裏の前に一本の道があり、真っ赤に染まった紅葉で彩られていました。
この道を前に進むことはできないのですが、これが本来の参道でそうです。かつては総門から入り、築地塀に沿って庭園の南を通り、中門をくぐってここまで来ていたようです。今は総門は閉められています。
少し元に持ってくると、本堂があり、本堂と紅葉のコントラストがとても美しいですね。
西芳寺の入口付近には大佛次郎文学碑「苔寺にて」がありました。
いや、本当に西芳寺は美しいお寺でした。非公開のお庭を公開するということはあるんでしょうか。見ることができるのであれば、ぜひ来てみたいし、また、落ち着いた頃にでも見に来たいと思いました。そう思わせる西芳寺でした。
初めての嵐山観光
西芳寺を満喫したあと、今度はバスで嵐山に向かいます。中学生の時に京都に行って以来、何回か京都には行ってますが、それでも京都西部の嵐山には行ったことがなく、テレビなどで渡月橋とか見ると、とても羨ましい感じがしました。そういう思いがあることもあって、今回の嵐山はとても楽しみでした。
西芳寺のバス停からは京都駅行きのバスに乗り、嵐山に向かいました。時間にして15分ほどです。
嵐山に到着すると、もう目の前は渡月橋です。こちらは初めてパリに行った時にエッフェル塔を見たときと同じくらい感動しました。嵐山に到着すると、流石に京都でも有数の観光地ということもあって、観光客や修学旅行の生徒さんたちが多く歩いていて、東京でいうと竹下通りを思い出すような、人出の多さでした。
ちなみに僕はというと、この日は大阪のホテルで急いで朝食を食べてからずっと動き回っているということもあり、かなりエネルギーを消耗していまして、ソフトクリームを食べました。嵐山にはこういう感じのお店も多くあるので、便利ですよね。
ついに来た、天龍寺
その後少し歩くと、天龍寺がありました。今回の嵐山観光ではまず行ってみたいと頭に浮かんだ場所です。天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇崩御の年に、後醍醐天皇を弔うに創建したお寺なので、京都は古い寺社がある中では比較的に新しいお寺でもあります。足利尊氏は、後醍醐天皇から諱をもらうほど近い関係でしたが、建武の新政が武士から反発を受けて、両者は離反し、その後足利尊氏は武力で後醍醐天皇を圧倒し、そして南北朝時代という激動期が生まれるという、かなり疲れる人生を送っている二人です。足利尊氏は、後醍醐天皇のことを好きだったんじゃないかなあと僕は勝手に想像しています。
後でもう少し書きますが、僕が天龍寺に興味があるのは、幕末に京都から叩き出された長州が、池田屋事件などの報復をするために蛤御門の変を起こしますが、その事実上の首領だった来島又兵衛軍がこの天龍寺を拠点としたので、何か彼らのものは残っていないのかと言うのは、歴史好きの僕としてはものすごく興味がありました。インターネットで調べてもあまりそういうものはなく、少し残念だったのですが、天龍寺の敷地に入って、庫裏の方に向かっていると、右手に弘源寺というお寺がありました。
このお寺はお庭が自慢らしいのですが、ポスターらしきものを凝らしてみると徴集兵の刀傷がありますということでしたので、拝観料を払って中に入りました。
本堂の中に入ると、柱があって、そこには「長州藩兵の刀傷」とあります。
よく見ると、何箇所も刀でへっこんだ跡が見て取れますね。
こちらで長州の跡を見ることができたので、弘源寺を出た後、庫裏がありました。この建物は僕にとって天龍寺らしさを最も感じるので、ああ、天龍寺に来たなあという感慨深かったです。
次に13時に天龍寺内にあるレストラン天龍寺 「篩月」に予約しているのですが、まだ時間があったので、
の加山又造画伯「雲龍図」を500円払ってみました。こちらは撮影禁止のものですが、とても迫力がありました。
そして方丈を通り越して、
「篩月」に到着しました。
ランチは天龍寺 篩月精進料理をいただきました
「篩月」は、天龍寺が直営しているレストランで、精進料理の食べさせてくれます。旅の楽しみの一つに地元の料理がありますが、今回嵐山観光をする上で色々悩んだのが食事です。嵐山は京都有数の観光地ということもあって、たくさん食事をするところがあります。京都ならではであれば、お豆腐とかありますし、その他お蕎麦とかもあったりしますし、すごいのになるとランチで10万円というところもありました。こういうところは、お金が余っている観光客からふんだくってやろうという気持ちがあるように思えますし、いくらなんでも10万円はやりすぎだと憤慨していました。そこで、色々考えた挙げ句、嵐山じゃないと食べられないのはなんだろうと考え、天龍寺で食事ができるということを聞きつけて、「篩月」にしました。
結論からすると、「篩月」にして大正解。価格は3300円とそれなりの価格はしますが、その価格に見合う料理が出てきましたし、精進料理にしてはかなりボリューミーなところもあって、大食漢の僕としては大変満足しました。
メニューは次の通り。
【木皿】
・盛り合わせ(5種~7種の前菜)
【坪】
・お和え
【木皿】
・胡麻豆腐
【お平】
・炊き合わせ(麩・湯葉等)
【汁】
・赤味噌仕立てなど
・ご飯
・季節の逸品
・季節の果物
写真をアップしますね。
天龍寺散策〜竹林の小径
お腹いっぱいになり、次は竹林の小径まで天龍寺を散策します。
下の写真は天龍寺の方丈の前にある曹源池です。お庭の手入れが良く出来てて、日本らしいなあと思って眺めていました。
こちらは方丈です。
方丈の中には達磨の絵が見えました。
しばらく歩いていると、天龍寺の北の出口があり、その脇には竹林がありました。
こちらの竹は竹林の小径までつながってるような感じがしました。天龍寺の北出口を出てしばらくすると竹林の小径がありました。ここも嵐山に来たら、行ってみたいと思っていた場所なので、年甲斐もなくウキウキしましたよ^^
かなり観光客はいましたけれども、やはり雰囲気はよかったです。こちらも夜になるとライトアップされるようで、いつかここに来ることがあればライトアップされた竹林の小径も見てみたいと思いました。
紅葉が半端ない常寂光寺
天龍寺、竹林の小径まで来たので、今度は常寂光寺に行きました。常寂光寺に行こうと思ったのは、この日の16時過ぎにトロッコ列車の予約をしているので、天龍寺からも近く、トロッコ嵐山駅まで近くて、散策も1時間くらいゆっくりしたいという僕の希望にぴったりだったからでした。また、関西に住む友人も常寂光寺の紅葉は素晴らしいということも聞いてたということも、選んだ理由になります。
竹林の小径をあるき終わると、目の前に池が現れます。この池の名前は小倉池といい、これは常寂光寺が建っている小倉山にちなんだものだと思います。この脇道をずっと歩いていると、左側に常寂光寺の参道があります。
山門をくぐって、拝観料を払うと石階段があり、この意思階段を登っていくと本堂があります。
階段の上がって、周囲を見渡すと、紅葉がすごいこといなっていました。
本堂のある場所は小高い丘のようになっていて、そこから京都市内を見ることができました。京都の東の方面です。
評判の紅葉は確かに素晴らしくて、ここに来てよかったと思いました。調べてみると、ここには200本以上のカエデが植えられているとのころで、それは確かに見事に決まってますよね。写真もしっかり撮ってきたので、こちらに貼り付けておきます。
また、常寂光寺の構内には色々な建物もありました。木造の建物というのは、古くなるといい味が出てきますね。
寂光寺 多宝塔
常寂光寺 鐘楼
常寂光寺は、藤原定家の時雨亭跡地と言われ、平安時代にこの地で歌を詠んだりしたんでしょうけれども、京都はそういう点でとても古いですよね。そういうのが当たり前にあるところにも京都の良さがあります。関東は古くてせいぜい鎌倉時代ですし、文化も京都の場合は「雅」という文字がとても良く似合うなと思いましたし、この常寂光寺はまさにそういう平安貴族が愛した地という感じでした。鎌倉の寺院に感じる厳しさや強さというものは、感じられませんが、それが京都の寺社の佇まいのようにも感じました。
保津峡が素晴らしいけど、思いっきり寒いトロッコ列車
せっかく嵐山に来たので、帰りはトロッコ列車で亀岡駅まで行き、そこから夕飯を食べに祇園まで行きます。結構長いです。
常寂光寺での散策がおわり、今度はトロッコ列車に乗ります。トロッコ列車は、現地でチケットを買うことができるのかどうかわかりませんが、僕は事前にJR西日本の会員となってチケットを予約しました。
1号車は先頭車両になり、約20分ほどの乗ることになります。
下の写真は、トンネルなんですけれども、こちらをくぐって亀山に向かっていきます。
こちらは進行方向に向かって右側の風景です。トロッコ列車は、観光客向けということもあって、窓が全開です。まあ、コロナなので換気は必要なのですが、とにかく吹きさらしということもあって、寒いなんてものではありませんでした。
しかしながら、こういう風景もトロッコ列車に乗らないと見られない風景なので、手をものすごく冷たくさせながら、カメラを握っていました。
今回、カメラはシャッターチャンスの調整をうまく設定することができなくて、トロッコ列車に乗っている間位に100枚近く撮影しているのですが、ほとんど使い物にならず。ちゃんと撮れたのは、この数枚だけです。残念TT
トロッコ列車は亀山駅に到着するのですが、ここからJRに乗るためには、馬堀駅までいいかないといけません。この馬堀駅まではトロッコ亀岡駅からですと、歩いて10分ほど。大した距離ではないのですが、以上のようにずっと動き回っているということもあって、結構ヘロヘロです。
この写真は馬堀駅から撮影したのですが、この山は愛宕山でしょうか。
トロッコ列車では、ずっとガイドの人がスピーチをしてくれたのですが、嵐山から亀山までには小倉山や愛宕山を超えてくるんですけれども、このあたりは昔明智光秀の領地だった場所です。明智光秀は内政をしっかりやったことで名君とされていて、僕も武将としては好きな武将です。光秀は、この丹波の地を信長から取り上げられ、本能寺の変を起こすに至るのですが、本能寺の変を起こす前に愛宕山にある愛宕神社で連歌の会を開いて、信長を倒すことを宣言しているんです。
ときは今 あめが下知る 五月かな
ときはというのは、土岐源氏が今という意味です。光秀は土岐源氏の末裔であり、その源氏の末裔が平家を討つということを宣言している歌です。この場合の平家というのが信長のことで、信長は足利義昭を追放したことで源氏を滅ぼしたため、征夷大将軍にはなれず、そのため公家となって天下を収めようとしました。本人も自分は平家であるということを称しています。その信長を土岐源氏の光秀が倒すという宣言を連歌の会でしました。連歌の会でそういう宣言をしたということは、この当時多くの人が知るということになるので、光秀はもう後がない。そういう決断をこの愛宕神社でしました。もう少し時間があれば行ってみたかったです。
夕飯は祇園でステーキを食べる
結局、一人旅だし、せっかく京都に来てるんだから美味しいものを食べたい。でも、あまり高すぎても逆に美味しくなくなってしまう。そこでこちらもどうしたものか右往左往したのですが、ホテルが京都駅前ということもあって、京都のそれなりの街にはどこに行くにしても10分ほどでいけるので、結局祇園でステーキを食べることにしました。選んだお店が鉄板 灼奏。一休レストランで見つけました。場所は、よしもと祇園花月の直ぐ側で、コースでデザートとコーヒーがついて5200円。安くないですか?
鉄板 灼奏
次の料理をいただきました。ガーリックライスは別料金。200円プラスかな。美味しかったです。
帰りは、八坂神社まで歩いていき、そこからバスに乗って帰りました。疲れました^^
なお、この日の様子は動画でまとめてあります。もしよろしけば御覧ください。