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司馬遼太郎さんの名作翔ぶが如く(1)の登場人物と場所を深堀りしてみました

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翔ぶが如く(一) (文春文庫)

司馬遼太郎さんの著作には、色々と名作がありますが、「翔ぶが如く」は西南戦争を扱った大変な力作です。僕もこの本を読むようになって何十年も経っていますし、大河ドラマになるほどの名著で、僕は今回この本に登場する人物や場所などに焦点を当てて、インターネットで調べてみたり、実際に足を運んでみたりしたことをまとめてみました。

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パリで

まずこの項では、最初に川路利良が登場します。

この男は、薩摩の田舎では、
「正之進」
とよばれていたが、パリでは、としながとローマ字で書いていた。
川路利良である。

とあります。

結局この長い小説の副主人公として、西郷軍と対立する人物ですが、日本の警察の創立者です。どういう顔をしているのかというと、

Toshiyoshi Kawaji.jpg

川路利良は、明治維新成立後洋行するのですが、その状況がこの小説のオープニングに記載されています。

1872年(明治5年)の9月に横浜を出帆し、厳冬といっていい季節にマルセーユに上陸した。

明治の頃には当たり前のことですが、飛行機はありませんので、船で横浜からフランスまで行ったわけです。気が遠くなる距離だなあと思って、グーグルマップで調べてみると、飛行機などを使って15時間45分かかるとのこと。船だったら当時どのくらいかかったんでしょう。

ー沼間守一にでもきくか。

と思ったが、しかし業っ腹でもあった。

沼間守一という人物は、この本を読んで初めて知りました。旧幕臣の軍隊指揮官として活躍をした人だそうです。

Numa Morikazu.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

西南戦争後は、政治の仕事やジャーナリストとして活動をしました。川路利良は、沼間守一とはヨーロッパに外遊中だったようですが、あまり仲は良くなったようですね。川路ら一行は、パリに到着後ルーブル宮殿のそばのホテルに泊まったようで、一行はルーブル宮殿の巨大さ、ホテルに圧倒されたようです。確かに明治5年というと、今から149年前ですから、ルーブル宮殿はびっくりしたでしょうね。僕も何回かルーブル美術館に行きましたが、いつも圧倒されています。

ルーブル美術館 ナイトミュージアム

ちなみにこの一行のトップは土佐藩出身の河野敏鎌です。

Togama Kōno.jpg

河野敏鎌は、土佐勤王党出身で、明治維新後大久保利通の指示で自分の上司であった江藤新平に処刑を宣告した人物です。その後、明治13年(1880年)、文部卿、明治14年(1881年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿、明治21年(1888年)に枢密顧問官、第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣と政府内で順調に出世しました。明治26年(1893年)10月30日、子爵を叙爵ということで、土佐藩は下級武士でしたから、今更ながら明治維新は革命だったということがこういう人事でもよくわかります。

豪華なホテルに泊まった彼らは、その後ホテルを移動しました。

宿は、静寧(セーヌ)川にかかる阿爾嗎橋の近くにあり、鎧戸であるほかは全体が古ぼけた四階建てであった。

セーヌ川をこういう字を使うのかということを初めて知りましたが、阿爾嗎橋はアルテマ橋といい、フランスでPont de l’Almaといいます、場所はこちらです。

googleマップから引っ張ってきた写真です。こちらはエッフェル塔が写っていますが、もちろん川路利良一行がパリにいた頃はありません。エッフェル塔は1889年に完成しています。

この項では、フランス人のロニーという日本好きの人物が川路利良らを訪問してくるのですが、そういう人物が訪ねてくるでしょうと、川路利良に栗本鋤雲という人が教えています。

鋤雲はフランスの政情やパリ滞在にあたって助言し、雑談になってから、

「ロニーという若者がきっと訪ねてきますよ、これは奇書生です。」

栗本鋤雲という人物も旧幕臣で、

Kurimoto Joun

栗本鋤雲

写真を見ると、強面の方ですね。幕臣のときは外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した人物です。

さて、川路利良は、日本の警察の創設者となるわけですが、その基礎がこの外遊でほぼ固まり、川路が最も参考にしたのが、ジョセフ・フーシェです。

Joseph Fouché.png
フーシェは、激動のフランス革命に登場して、秘密警察を駆使して政界を生き続けたという変節漢だと司馬さんは批判されていますが、ウィキペディアでも、

複数の場所に同時に存在するという近代警察の原型となった警察機構の組織者、秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として知られる。権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(変幻自在の冷血動物)」の異名を持つ。

と紹介されています。日本でも本が売っていました。

鍛冶橋

この項では早々に

川路の役所は、内桜田の鍛冶橋にある。

橋をわたってすぐ右側がそれで、もとの津山藩邸であった。

とあります。今はどこに当たるんだろうと調べてみると、津山市のウェブサイトに「今の東京駅にあった津山松平藩江戸藩邸 | 津山市公式サイト」とあり、更に調べてみると、古地図を掲載している津山藩江戸藩邸 – 津山瓦版というコンテツがありました。たしかにこれを見ると、東京駅の線路の真上ですね。

津山藩は当初外様大名の森氏がお殿様でしたが、その後徳川家康の実質的な長男であった結城秀康の家系が藩主となっているということもあって、江戸城の近くに屋敷を用意してもらったんだと思います。親藩大名ですからね。この跡地が警察の役所ということなんですね。

Eto Shinpei.jpg

江藤新平

川路は帰国後、挨拶回りをすることになるのですが、まず川路のボスが佐賀藩の江藤新平ということもあり、挨拶に向かいます。江藤新平という人は、佐賀藩出身で、明治初年においては薩長土肥のうち「肥」にあたります。江藤は、司法省のトップとして日本における法律作りを一手に引き受けて、最後は大久保利通と対立し、その後佐賀の乱を起こし、処刑されます。しかも、処刑も、現地で軍事裁判が開かれ、その場で死刑を宣告され(その死刑を宣告したのが前述した土佐藩出身の河野敏鎌です)、晒し首されるという道をたどります。それでも佐賀藩出身者という点では、最も鮮烈な印象を残した人物です。しばさんも本文で江藤新平のことを褒め称えています。

かれは西洋語を一語も解しなかったが、西洋流の司法権の独立を宣言し、とりあえず日本国の法憲を司法省に帰せしめた。

ただ、江藤が佐賀藩が藩として直接明治維新にほとんど参加していないため(薩摩、長州、土佐のように直接革命活動をしていないということ。また、鍋島家が革命活動を協力に禁じていたということも要因だった)、藩閥が集団としての勢力がなかったということが欠点としています。こちらも次のようにか書かれていました。

新政府の大官には「肥」の出身者として江藤のほか大隈重信、大木喬任など人材がいるが、彼はたがいに個として存在し、勢力をつくろうとせず、その点ー背景を持たないということでー江藤は、政治家としては不備であった。

しかしながら、歴史には明確に名前を残していて、司馬さんも歳月という本を書いてます。

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大木喬任

ちなみに大木喬任という名前が出てきましたが、この人も佐賀藩出身で、参議までなったというからやはりかなり出世したということでしょうね。なお、同藩の大隈重信は侯爵になりました。

話は川路利良に戻りますが、川路は下谷竜泉寺町の戸田家の下屋敷を斡旋されて住んでいたそうで、今はどうなっているかと言うと、下谷警察署になっています。

早速写真を撮影したのですが、国道4号線沿いにあります。地下鉄三ノ輪駅から国道4号線を南下していくと、下谷警察署があり、そこに碑がありました。

川路利良邸跡

下谷警察署

川路大警視邸跡

川路はその後大久保利通に帰国の挨拶をし、かつ、パリで学んだことを報告に向かいます。その際に大久保利通の威厳について司馬さんは言及していていて、その例として奈良原繁のことを書いています。奈良原繁という人物は、旧幕時代から西郷さんや大久保さんらの同志ですが、旧薩摩藩内においては島津久光派に属します。

奈良原繁は旧幕以来久光の側近であったため、久光党に属していたが、明治11年官に仕え、のち男爵を授けられた

写真をアップしておくと、この方もかなり強面ですね。

Narahara Shigeru.jpg

奈良原繁

旧幕時代には寺田屋事件において反乱側を鎮圧し、生麦事件でもイギリス人を切りつけたとされています。明治後は当初島津家の家令から、政府入りし、静岡県令等を歴任し、官選知事として沖縄県知事となり、16年君臨し、かなり強引な政治をしたことで「琉球王」を異名をもっていて、後世からはあまり評判は良くないですね。久光党は、この人や海江田信義といい、武断系の人が多い感じがします。

そうこうしているうちに、西郷隆盛登場となります。西郷は日本橋小網町に住んでいて、今の場所でいうと人形町駅から徒歩数分の場所になる日本橋小学校のあるところです。

こちらも現地に行き、写真を撮影してきました。

西郷隆盛屋敷跡

日本橋小学校

西郷隆盛屋敷跡

川路は、帰朝の挨拶を江藤新平、大久保利通にした後、西郷を尋ねると、そこに陸軍少将桐野利秋がやってきました。桐野は後に西南戦争を引き起こす人物です。

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桐野利秋

西郷さんは桐野を高く評価していて、戊辰戦争後に一度鹿児島に戻ると、薩摩軍を編成し城下士で編成された部隊の隊長にしました。

桐野利秋は、この城下士の常備大隊の一番大隊長に任ぜられた。二番大隊長は篠原国幹で、三番大隊長はのちの海軍大将川村純義、四番大隊長はのちの陸軍中将野津鎮雄である。

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篠原国幹

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川村純義

情念

この項を読んでいると有馬純雄という人物が登場します。有馬は戊辰戦争の初期に官軍参謀として新選組の近藤勇と戦い、近藤の処刑を反対した人物でもあります。

晩年に維新の片鱗という本を書いています。

有馬が薩摩人の飲み会に招待されていて、軍人中心の飲み会に大騒ぎとなり、司馬さんは次のように記載しています。

逃げてきた連中は、厚之丞とよばれていたのちの文学博士重野安繹、のちの元老院議官中井弘らで、「汝等が来っ場所じゃなか」と、兵隊たちに剣突をくらわされて酒楼から追い出されたというし、主賓の大山綱良にいたってはみずから兵隊をしずめるため拳固でなぐりまわり、そのためあごが外れた兵隊もあった。相五左衛門という兵隊は淵辺群平という西郷から愛された男に突っかかって

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重野安繹

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中井弘

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大山綱良

このうち重野安繹と中井弘は、天寿を全うしていますが、大山綱良は、西南戦争後処刑、淵辺群平は、西南戦争で戦死しました。

征韓論

この項では大隈重信がまず登場します。大隈重信は、早稲田大学の設立者であるとともに、総理大臣を2回就任しているという点でも日本の政治史に名前を残していますが、彼が外遊組の大久保利通の指示で留守内閣の監視役として留守内閣に入っていました。彼は西郷隆盛へは全く尊敬していないばかりか、終生阿呆じゃないかという見方を変えなかったのですが、それは一つに出身の佐賀藩が秀作偏重主義のためと司馬さんは解釈しています。というのは、明治維新という血なまぐさい革命運動を経験してきた薩長のメンバーは、頭がいいだけでは世の中を動かせないということを身を以て体験しているということもあり、頭が良ければいいということにはしていません。その例として司馬さんは次のように例を挙げています。

たとえば幕末に登場する志士たちのなかで出羽の清河八郎、越後の本間精一郎、長州の長井雅楽、おなじく赤根武人といった連中は、生きて維新を見ることができたどの元勲よりも頭脳が鋭敏であり、機略に長け、稀代といっていい才物たちであったが、しかしそれらはことごとく仲間のために殺された。

それぞれ名前が上がった人の写真をアップしておきます。

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清河八郎

本間精一郎

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長井雅楽

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赤根武人

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結果として西郷さんが征韓論の提唱者ということになりましたが、この項では西郷さんのことが色々と書かれています。西郷さんは、島津斉彬に見いだされ、それがきっかけで政治家として才能を開花させるわけですが、斉彬の死後、久光が実質に藩政を握ることになりますが、西郷さんは久光さんのことを徹底的に嫌ったのは有名な話しですし、久光さんも自分を敬わない西郷さんを嫌い、2度島流しをしていますし、明治維新後も幕府を倒せなんて一言も言っていないといい、

それだけに久光は西郷を憎むことはなはだしく、中国史上の謀叛人の代表者である安禄山をひきあいに出し、西郷は安禄山だ、とつねづね罵っていた

久光さんは西郷さんについてはよく安禄山の名前をあげますが、安禄山とはどういう人物かというと、

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安禄山

安禄山は、中国唐の軍人で100キロ近い巨漢だったそうです。唐の軍人でしたが、反乱を起こし、燕という国を立国し皇帝となるものの、息子に殺されるという運命です。日本でも奸臣の代表的な人物として、平家物語にも記載されているようです。

西郷さんにはとにかくエピソードが多いのですが、戊辰戦争の際に徳川系の一つだったのが、出羽庄内藩です。出羽庄内版は、徳川家の譜代大名の中でも井伊家と並ぶ大名であり、戊辰戦争においても会津藩とともに最もよく戦ったということもあって、戊辰戦争敗北後最も苛烈な追求を受ける藩でした。この敗戦処理をするため、訪れたのが西郷さんで、その模様が書かれています。

西郷は城受けとりのために入城し、藩主酒井忠篤に対面した。西郷に従っていた薩摩の若者高島鞆之助(明治二十四年の陸軍大臣)は西郷のいんぎんな態度におどろき

「あまりに謙虚すぎて、どちらが降伏するのやらわからなかった」

西郷さんの敵だった相手へのものすごい寛容さは、彼の大きな美質のひとつです。この寛容さについては、藩主だけでなく藩士も西郷さんのファンになり、庄内城を受け渡しをする際に、西郷さんが荘内藩藩主や藩士の人たちとのやり取りを荘内藩士の人たちがまとめたものが有名な南洲翁遺訓ですし、後に西南戦争が起きたときは、旧庄内藩士の義勇軍が結成されて、西郷軍に参加しています。

また、このときの荘内藩の藩主である酒井忠篤は、お殿様でありながら、陸軍に入隊してますね。西郷さんの影響でしょうか。

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酒井忠篤

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高島鞆之助

高島鞆之助はその後軍人として陸軍大臣になるなど、順調に出世してます。

話は征韓論に戻すと、征韓派は当時の挑戦事情を調べるために朝鮮や清国に軍事探偵を派遣していました。これが明治初年というのはなかなかすごいことですよね。

実地調査のお膳立は、薩摩士族のなかでもっともアジアへの関心のつよかった池上四郎(西南ノ役で戦歿)がやった。

池上四郎は、西南戦争の西郷軍の将となり、城山で戦死しています。

土佐の北村長兵衛は近衛の中佐である。戊辰ノ役では砲隊長をつとめ、やがて夭折するが軍人としての資質はゆたかであった

この当時の日本の外務の責任者は副島種臣で、人柄が高雅で中国学の知識が高く、中国の皇帝に外国人として初めて拝謁した人物です。彼も征韓論者でした。

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副島種臣

小さな国

この項を前後して、司馬さんは木戸孝允のことを書いています。幕末時は桂小五郎と言いました。僕は木戸のことが好きで、人物眼という点では、幕末において有数ではないかと思っています。例えば、戊辰戦争の中心的な存在になった大村益次郎を発見したのは、木戸ですし、伊藤博文を抜擢したのも木戸です。

木戸の奥さんは有名な幾松です。京都の芸妓として幕末時に木戸の危機を何度も救っています。そのことは司馬さんも言及しています。

木戸の夫人は、幕末、幾松という妓名で才気をうたわれた京の名妓であり、木戸の危機を幾度か救ったという逸話が革命神話のひとつになっているほどのひとである。

Kido Matsuko 1870

幾松(木戸松子)

次に黒田清隆が登場します。黒田清隆は日本では伊藤博文の次に日本の首相になった人物です。司馬さんの評価も低くありません。

薩摩閥のなかで、西郷・大久保に次ぐ者といえばこの黒田清隆であろう。かれは五稜郭攻めの司令官のひとりで、敵の榎本武揚や大鳥圭介以下を降伏させ、そののちかれらの助命運動をし、成功した。

Kiyotaka Kuroda 2

黒田清隆

Takeaki Enomoto

榎本武揚

Otori Keisuke

大鳥圭介

僕は黒田清隆のことはあまり詳しく知らないんですけれども、幕末から明治初年にかけて榎本武揚の救命などかなり大きな仕事をしている人ですが、晩年は周囲から避けられた感がありますね。実際に葬儀委員長は薩摩の人ではなく、榎本武揚が行っているということから考えても、薩摩系から忌避されたのかなあと思ったりします。この頃、西郷さんの弟や大山巌なども存命だし、かなり昔は交流があったと思うんですよね。

話しは変わりますが、明治初年の頃は治安があまりよくなかったり、政府内の葛藤などもあって、重要な人物が暗殺されています。司馬さんの文章を飲用します。

もっとも、刺客に遭う危険はあった。かつて長州藩時代の同志でのち兵部大輔になった大村益次郎も、参議になった広沢真臣も殺された。

Masujiro Omura cropped

大村益次郎

大村益次郎の暗殺の背景には、薩摩の海江田信義がいたということは周知の事実で、こちらは司馬さんの花神に詳しいです。こちらはとてもおもしろい本なので、おすすめです。特に上野戦争の描写はとてもおもしろいです。(上野戦争というのは、戊辰戦争の中で唯一江戸内で行われた戦いで、新政府軍と彰義隊の戦いです。今上野に行くと、銃弾の跡などが残っています。)

大村益次郎 靖国神社

あと、靖国神社に行くと、銅像がありますよ。

Hirosawa saneomi

広沢真臣

広沢に関しては、この人の暗殺は逆に誰がやったのかわからず、迷宮入りしてしまったようです。彼がもし生存していれば、木戸さんもあれほど心労することはなかったように思いますね。広沢が大きく評価されたということは、賞典録が1800石をもらっているということからもわかります。賞典録というのは、戊辰戦争が終わった後に、新政府から明治維新等に貢献した人物に与えられたもので、武士で一番高かったのが西郷さんで2000石、次のランクが大久保利通、木戸孝允、そして広沢ということで1800石与えられているということからもわかります。なお、明治政府は華族制度を創設するのですが、創設前に亡くなった広沢は伯爵を授けらています。

渋谷金王町

まず、この渋谷金金王町ですが、今はすでにありません。旧名を探す会さんのブログによると、

消滅した年が1966年とのことで、ある意味最近ですね。渋谷駅から青山学院へ向かう途中に金王八幡宮という神社があり、

この神社が地名の由来だそうです。ここに西郷隆盛の弟の従道が住んでいたということです。その西郷さんは、明治10年に西南戦争を起こしますが(実態は違いますよ)、救世主と見られていたようで、薩摩以外の藩からも参戦しています。その中に中津藩の増田宗太郎という人物がおり、彼は最期まで西郷さんについていった人です。

戦勢が非で、西郷が軍を解散し、他郷出身者の帰郷をすすめたとき、この中津隊も帰ることになった。
ところが、隊長の増田宋太郎だけは踏みとどまった。

Sotaro Masuda

増田宗太郎

増田の次の言葉はとても有名だと思います。

「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」

西郷さん話続きます。西郷さんは、陽性の人物ということもあり、多くの人からも愛されましたし、後輩たちをと話をしたりするということが好きだったそうです。若い人たちとのやり取りをしていると、当時はやはり人物論ということになるのですが、その際若い人たちが西郷さんでもかなわない人物はいますか?という質問に対して

「司馬温公にはとても叶いもさん」

と言ってます。では、司馬温公とはどういう人かというと、当時の北宋の政治家で、資治通鑑を書いた人です。当時の皇帝神宗の元、首相の地位にあった王安石と対立し、神宗没後首相となり、王安石の政策を全否定しました。

宋丞相司马温公光

司馬温公

この項の最期赤山靭負が登場しています。大河ドラマ「西郷どん」では沢村一樹さんが演じましたね。

赤山は身分の高い人でしたが、島津斉彬擁立派であったこともあり、お由羅騒動で切腹を命じられています。この赤山の切腹は、西郷さんだけでなく大久保さんなど、明治維新の中心的存在に大きな影響を与えました。