2016/06/110 Shares

長宗我部元親の恭順書簡が見つかりました

今朝の日経を見ていたら、社会面に長宗我部元親が明智光秀の家臣である斎藤利三宛に織田信長に恭順する旨をしたためた書簡が発見されたという記事がありました。歴史好き、戦国時代好きの僕としては結構興奮をしました。

長宗我部元親とは誰か

そもそも長宗我部元親とは誰かというと、戦国時代に土佐に勃興した戦国大名で、一領具足という極端に言うと、農民を戦時に兵士として活用することで戦力を一気に倍増以上増やして、四国を統一しかけた大名です。結局、当時の豊臣政権に降伏して、豊臣大名になることで、その野望を捨てざるを得なかった、それこそ、織田信長や武田信玄、上杉謙信に匹敵する戦国大名です。

この一領具足の末裔が、のちの幕末の土佐藩の郷士として明治維新に尽力しました。言うまでもなく、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太など土佐で下級武士と言われる人たちはほぼ戦国時代の長宗我部元親の家臣だった人たちです。

長宗我部元親と織田家との関係

戦国時代は、結局中央に織田信長が出現して、その革新的な人材登用制度などで一気に天下を取る勢いとなり、土佐の長宗我部元親も本領安堵をしてもらうために、織田家と好(よしみ)を結びまして、織田家の長曾我部の担当が明智光秀でした。長宗我部と明智家はそういう状況だけではなく、元親の妻は明智光秀の家臣斎藤利三の妹ということもあり、この両家は実に親密でしたし、それは信長の光秀への指示でもあったはずで、そういう状況もあり、元親が織田家と対立すると、結果的に明智との対立も招くために、織田家との恭順を示したということだと思います。

ところが、この記事もあるように

信長は、四国は元親の自由にさせるとの方針から、一部しか領有を認めないと変更。手紙は明智光秀の家臣、斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。手紙は天正10(1582)年5月21日付。直後の6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が、信長の方針転換に納得しなかったことが原因との説もある。

というように、信長は平気で約束を破ってしまい、光秀のメンツも潰れたということもあり、光秀が信長を恨んだというのは十分あり得ることです。

長宗我部元親の書簡に関するニュース

この長宗我部元親に書簡についてニュースでは

    1. 日本経済新聞 ‎- 10 時間前
      戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土を巡り、本能寺の変の前に織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日、

    長宗我部元親」の他のニュース

この件に関するツィート

この日経の記事に対するツィートをご紹介すると、

長宗我部元親から「信長に恭順」手紙 明智氏家臣に:日本経済新聞 http://t.co/KbPxJyhPlK 興味深い資料ですな。恭順すると言うのに四国攻めを強行する理由は分かりませんが、もしそうなら今までの色んな布石があっての本能寺の変というのも考えられなくはないです。
— 元ひんでんブルグ (@hindenburugu) 2014, 6月 24

 

恥ずかしながら存在を初めて知った。奉公衆土岐石谷氏の新史料だろうか。土岐文書とはどのような関係にあるのだろうか。47点の全貌をぜひ知りたい。>長宗我部元親から「信長に恭順」手紙 明智氏家臣に:日本経済新聞 http://t.co/9A29rwamTU
— tonobataan (@tonobataan) 2014, 6月 23

 

長宗我部元親のその後は

元親は豊臣大名になった後に、信長の信をもらった信親とともに島津軍と戦う戸次川の戦いで信親が戦死すると、一気に落胆し、家中を混乱させて亡くなります。また跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与したことで、所領が没収され浪人となり、その後大阪夏の陣が起こると、大阪方の武将として奮戦するものの、結局討ち死をし、ここで長宗我部家は滅亡します。

また、元親の妻の兄である斎藤利三は、明智軍の侍大将ですが、彼の娘が後に春日局となり、徳川家において一定の権力を握るというのも面白いです。

夏草の賦

なお、長宗我部元親については司馬遼太郎さんが夏草の賦という名著を書いており、彼のことを知るには最適の書籍です。

司馬 遼太郎 文藝春秋 2005-09-02

 

司馬 遼太郎 文藝春秋 2005-09-02

 

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