2016/06/080 Shares

「花燃ゆ」楽しむために「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 島の城下へ

世に棲む日日 島の城下へ

松陰の旅は続きます。下関から門司に渡り、門司から大里〜赤坂〜小倉城下に入り、さらに鍋島家佐賀城を通過して、大村藩を経由し、長崎の長州藩邸に入りました。

長州藩長崎藩邸

ここで、地図を作成するにあたり、大変だったのが、長崎にある長州藩邸はどこにあるのかということでした。まずは「長州藩 長崎 藩邸」と検索をして、最終的にウィキペディアの「長崎聞役」にたどり着きました。さらに長崎市のホームページで「長州藩 蔵屋敷」で検索をすると、長崎自治会館が長州藩の蔵屋敷であることがわかりました。そこで、松陰が下関から長州藩の長崎藩邸までの足跡をたどってみると、216キロの距離です。昔の人は改めてすごいですね。

長崎県自治会館は、こちら。

 

肥前日ノ浦への悪路

松陰はこの長崎から平戸藩の葉山佐内という陽明学者に会うべく、平戸に向かいました。まず平戸藩に渡るために、肥前日ノ浦(長崎県平戸市田平町)に行かなければいけないのだが、松陰によると長崎から日ノ浦までの陸路が実に難路で、この行程に対して
「この日の艱難は生涯わすれない」という旨の手紙を書くほどだったようで、確かに地図でチェックしてみると、いかにも大変という感じです。

 

松陰の平戸の宿「紙屋」

平戸に着くと、松陰は「紙屋」という宿を拠点として、平戸藩の葉山佐内に師事して、陽明学などを教わるのですが、松陰が利用した「紙屋」跡が碑がありまして、現在は田原石碑店さん(長崎県平戸市浦の町733)の前にあります。

長崎県平戸市浦の町733 田原石碑店

ストリートビューにも当然写っています。右下の石碑がそうで、「不楽是如何~史跡めぐりドライブ~」によると、

嘉永3(1850)年、山鹿流軍学を学ぶために平戸を訪れた吉田松陰は、儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内に師事し、この地にあった紙屋に滞在しながら数多くの書物を書き写したといわれています。(現地説明板より)

とのことです。

この平戸で松陰が世話になった葉山佐内については、「松風会」のサイトによると、

葉山 佐内(附野内)
名は高行、号を鎧軒という、平戸藩の家老職。17歳江戸に出て、佐藤一斎の門に入り、のち藩主の伝となる。安政2年著わした「儲保軌鑑」は藩主世子に献じたものであるが、一斎これを推賞する。万延元年駕に従い江戸に赴き執政の要職に抜擢。元治元年4月21日没す。享年60歳。
その嫡子野内、名は高尚。嘉永2年小納戸頭として世子に従って江戸に在り、安政2年世子の近侍頭となり、文久依頼藩主の命を受け国事に周旋し、慶応4年には側用人にして旗仮支配の要職に在り、明治2年同藩の権大参事。4年4月辞して旧藩主の家令心得となり、7年隠退する。
松陰は師林百非が友人伊藤静斎より佐内の人ちなりを聞きて従学せんことを希望勧告せるにより、遂に嘉永3年平戸に遊学し、特に多くこの人の家を訪ねて、書を借り、教えを受け、最もその人物に推服せり。この五も書信の往復を続けた。翌年江戸において、佐内の紹介により、その子野内に会い詩文で交わる。
(第1巻100・102・273・307頁、第4巻39頁、第7巻第6・21・26号、第9巻36以下・88・90・92頁、第10巻29頁)

平戸藩でも相当偉い人であることがわかります。ちなみに世に棲む日日では左内の息子である野内の息子、左内の孫の万次郎氏は、司馬さんが大阪外国語大学に入学をした時の校長で、名校長だったそうです。

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