2016/06/080 Shares

「花燃ゆ」楽しむために「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 山鹿屋敷〜帰国〜桜田藩邸

世に棲む日日 桜田藩邸

松陰は、結局平戸には50余日ほど滞在をし、葉山佐内の屋敷に通い、左内の紹介でその学友と交流をしました。ところが、松陰の目的は、専門である山鹿流兵学の習得であったのですが、その家元が山鹿万介が体調不良のため、なかなか会えないのでした。

山鹿屋敷

結局、葉山佐内の介添えもあり、山鹿万介とは面談をして、その4日後入門が許されました。この項では山鹿万介やその子孫である山鹿光世の事が書かれていますが、どういう人物であったのかわかりませんでした。

帰国

平戸においては、陽明学者でもある葉山佐内から王陽明の「伝習録」を学んだことが、松陰の生涯に大きな影響を与えました。

王 陽明 中央公論新社 2005-09

陽明学の「実行のなかにのみ学問がある。行動しなければ学問ではない」という思想が、松陰の基質に適合しました。実際に、この後松陰は脱藩をしたり、密航を企てたりしているのは、この陽明学の思想が根本にあるからだと思います。

平戸を出た松陰は、長崎〜天草〜熊本と足を伸ばしました。

熊本では終生の親友となった宮部鼎蔵と出会いました。

宮部鼎蔵は、「花燃ゆ」ではビビる大木が演じていい味を出していますが、後に池田屋事件で新選組の襲撃を受けて闘死する人物です。ここで、宮部と語り合い、松陰は年末に萩の自宅に戻りました。その際に宮部から江戸に行かないかと言われ、そのことのみが脳裏を占めている始末でした。年明け早々、藩に申し出ると、検討してくれるとのことでした。ここで、司馬さんはこのように表現をしています。

松陰は年長者に愛された。

確かにこの無邪気なところは、人から愛される要素は沢山あるような気がします。

桜田藩邸

結局松陰は藩の上層部から「学問のためであればもっともである」ということで、江戸に行くことが許され、殿様が参勤交代で江戸に行くので、そのお供ということになりました。

長州藩の桜田藩邸は、現在の日比谷公園内で、地図的にいうと、

この桜田藩邸に松陰が到着してから、松陰の留学生活が始まりました。5月には熊本の宮部鼎蔵と再会、その宮部から江幡五郎後の那珂通高を紹介されます。

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