2016/06/080 Shares

「花燃ゆ」楽しむために「世に棲む日日(一)」をGoogleマップで深読みしてみました 手形〜脱藩

世に棲む日日1手形

松陰は江戸の桜田藩邸を根城に様々な塾に入塾しました。松陰の興奮度がわかる気がします。

手形

弟子入りした師匠を列挙すると

  • 安積良斎
  • 古賀謹一郎
  • 山鹿素水
  • 佐久間象山

この4人の中で松陰が師事したのは、佐久間象山だけでした。

更には、松陰の収穫は藩内外に多くの友人ができたことです。

  • 宮部鼎蔵
  • 江幡五郎
  • 鳥山新三郎
  • 佐々淳次郎
  • 松田重助
  • 轟武兵衛
  • 桜仁蔵
  • 肝付七之丞

この中で特に有名なのが、宮部鼎蔵と松田重助で、この二人は京都の池田屋で新選組に襲撃され(池田屋事件)、落命をします。

そして、松陰はこの仲間で東北に旅行に行こうと言うことになり、藩の許可も得て、さあこれから行こうという矢先に藩からは待てと言われました。それはなぜかというと、江戸時代に旅行する場合には過書手形が必要で、この過書手形は藩主が発行捺印するのですが、当の藩主毛利慶親が国元に戻っているので、書類を長州に送り、そこで藩主に押印を貰う必要がありました。

しかし、それでは友人たちの旅行には間に合わないと言うことになり、結局そちらを優先することで、脱藩をしてしまいました。松陰の人生は、こういういきなり飛躍することがあり、それが結局自ら窮地に陥る事を平気でやってしまいますね。後にもっとすごいことをします。

脱藩

世に棲む日日1脱藩

松陰は藩内では来原良蔵という槍の名手と友情を深めました。来原良蔵は後に33才で自殺をするのですが、長州藩士として桂小五郎の妹を嫁とし、死後は子息たちを桂が養子とし、孫に木戸幸一内大臣がいます。さらには伊藤博文を見出して、松下村塾に入塾させました。

薀蓄になりますが、伊藤博文という人は、元々は武士ではありません。ただ、実力で後の首相になるわけですから、明治維新が革命であったということが今更ながら認識せざるを得ません。

その来原が藩の主脳に対して、過書手形の件で何とかするべく交渉をしました。それは松陰の東北旅行がどういうものか、同行する宮部鼎蔵や江幡五郎らのことを来原も知っているということも背景にありました。しかし、藩主脳としても、許可は出ているんだから、手形が来るのを待つべきであるというスタンスで対抗し、来原は当然のことながら説得されてしまいます。僕もどうして許可が降りてるのだから、どうして我慢できなかったのかと思いますね。

そして、松陰は脱藩を決意し、宮部鼎蔵と江幡五郎には出発の前日に発ち、水戸で落ち合おうということにしました。

松陰の桜田藩邸から松戸本福寺への道のり

本福寺ストリートビュー

本福寺には、

歴史に登場した松戸市の本福寺によると、石碑が設けられているようです。JR北松戸駅から徒歩11分ほどの場所に位置しています。

 

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