2016/06/080 Shares

司馬遼太郎「街道をゆくー神戸・横浜散歩、芸備の道」どうして長州藩では奇兵隊が成立をしたのか、よく分かった件

長州奇兵隊

僕のライフスタイルの一つで、司馬遼太郎さんの紀行文「街道をゆく」全40巻を読破することで、ちょうど今21巻「街道をゆくー神戸・横浜散歩、芸備の道」を読み、どうして長州藩では奇兵隊が成立したのかということがわかりました。

奇兵隊とは何か

そもそも奇兵隊とは何かということなのですが、これは長州藩が明治維新を成し遂げるという点で、その軍隊として大きな力を発揮した軍隊です。どうして奇兵隊という名称なのかというと、

藩士を正規兵とすればこの身分を問わない新軍隊は身分制の原理からはみ出しているため遠慮して(あるいは気勢って)ことさらに奇とよんだ。

と司馬さんは書いています。その奇兵隊を創立したのが、高杉晋作です。

高杉晋作の存在価値とは

高杉晋作
高杉晋作

高杉晋作が高杉晋作として後世に名前を残したのは、この奇兵隊の創立者であったからです。本来、戦うということは武士の役目であったにもかかわらず、ひろく志願兵を募ったのが奇兵隊で、奇兵隊を構成している者達は、正規の武士ではなく、足軽であったり、百姓であったり、商人であったりしたことが、実に革命的でありました。

じゃあ、どうして奇兵隊というものが成立したのかというと、高杉らは文久2年以降

  • 御殿山の英国公使館焼き討ち事件
  • 下関海峡の外国船砲撃事件

などをおこしたりしたけれども、これらの攘夷は失敗しました。というのは、これらの一連の攘夷事件に対する報復として、四国艦隊下関砲撃事件がおこり、

長州藩の沿岸砲台は一時的に外国の海軍兵によって占領され、藩内は動揺し、
(略)
かれら(正規の武士)は「敵」の外国兵が上陸してくるのに対し、1人残らず砲をすてて逃げてしまったのである。

と司馬さんは書き、さらには高杉晋作が

「肉食之士人ら皆事に堪へず」
と、高杉は藩主への建白書のなかでいう。肉食とは、美食のことで代々高禄をもらって身分制の上に安住している士分階級をさしている。ぜんぶ腰抜けだというのである。

結局、敵が来ても砲を捨てて逃げてしまうような者には、防衛は任せられないから、広く兵を募れということを高杉は考え、そして奇兵隊を創立をしているわけです。
この辺りは、当時の武士階級と言うのは、上士は腰抜けであるというのは定評があったし、ましてや将軍の親衛隊である旗本などはもっとひどかったわけですが、こういうこともあり、骨のある下級武士が中心になって革命活動をしていくことになります。

なぜ奇兵隊は長州藩で成立したのか

ただ、普通は、武士以外は藩を守るという意識は基本的に不要なものでした。と言うのは、殿様は武士に対しては禄を与えていましたけれども、それ以外の者に対しては権威はあったとしても、生活を守るとかそういうことは一切してません。ですから、長州藩以外は、明治維新にしても武士階級以外は、ほぼ無関係でした。
しかし、奇兵隊だけはそうじゃない。あらゆる階層から義勇兵が集まって、結局長州藩の軍隊の主力になってしまった。この義勇兵を構成しているのは、武士としても下級武士だったり、百姓だったり、町人だったりするわけで、武士じゃないのにどうして?ということは僕自身ずっと疑問の対象だったのです。

奇兵隊の成立の根源は関ヶ原

では、なぜ奇兵隊が成立し得たのか。それは毛利家が広島に拠点があった頃から関ヶ原での敗北後のこの毛利家の状況で説明し得るのです。
つまり、

  • 織田信長と対立していた頃の毛利家の版図は山陰・山陽14カ国140数万石を領していた
  • 関ヶ原で反徳川についたため戦後処理で全領土が没収
  • 吉川氏のとりなしで長門・周防39万9千石をもらった

関ヶ原の敗北で、領土が1/3以下になってしまったけれども、その時の家臣のほぼ全てが毛利家に付いてきてしまい、当主の輝元もとてもじゃないが、家臣を養いきれないからとついてこなくてもいいと言ったのに、誰もきかなかったそうです。

結果、上級者の家禄は何分の1かに減り、下級者には知行も扶持ももらえないものが多く、そういう者達は農民になって山野を開梱したということで、毛利家の農民たちは、元々は毛利家の家来であったということであり、そのこともあって、幕末の長州藩が階級・身分をこえて結束が強かったのは、こういうことによるに違いないと司馬さんは書いてあり、
さらには、

長州藩の百姓の多くが、
−むかし毛利家が安芸にいたころは、わが祖も毛利家の家来であった。
という家系伝承をもち、藩士たちに対し同種意識をもっていればこそ庶民軍である奇兵隊の成立が可能だったのである

これほど奇兵隊の成立の根拠になるような文章を僕は初めて読みました。ああ、なるほどと強く思いました。

奇兵隊は長州藩だからこそ成立した

何度も書きますが、日本においては武士層以外は基本的に藩に対する帰属意識や忠誠心というものが物理的に成立しないのです。何故ならば、殿様から基本的に生活を保証してもらっているのは武士だけだからです。だから、武士以外の階層が自分たちの藩を守るということは普通有り得ないことなんだけれども、長州ではそれが成立した。それは江戸期の長州の百姓のほとんどが、安芸時代の毛利家の家臣であったということであれば、制度上の身分は違っても、元々の歴史的な背景さえ考えれば、結束が強いというのは理解できます。

伊藤博文
伊藤博文

具体的にどういう例を上げることが出来るかといえば、例えば伊藤博文。日本の初代の総理大臣ですけれども、この人はもともと長州藩士ではなくて、百姓身分であったけれども、来原良蔵がその才能を惜しんで自分の育みとし、その後来原が自殺をすると、桂小五郎が引き立てたのですが、その伊藤博文は同藩の井上馨と大親友です。井上自体は長州藩の上士の出身ですから、普通の藩では上士と百姓出身者のあいだに友情というものは成立はしません。ところが、長州藩ではそういうことが普通に成立した。それは、むかしは同根であったということであれば、納得が行くのです。
長年の疑問がこれでスッキリしました^^

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