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清盛その後

平清盛は、相変わらずわかりにくさが、ずっと続いてますけど、この日曜日もなんか前回信西入道に大事なものは何か守るべきものは何かと諭されて、崇徳上皇に刀を突きつけた。当時の武士の身分でそんなことが許されたのかと突っ込みたいところなんだけど、どうなんでしょうか。武士が上皇に敵でもないのに刀ってつきつけないと思うんだよな。

そしてこの日曜日も平氏はどちらの味方にもつかん!と豪語していたら、後白河天皇に恩賞ほしさで、決断を伸ばしてるようだがそうはいかんぞと見透かされて、日本で始めて武家政権を樹立した立役者にしてはあまりにも浅はかな清盛像なんだけど、そんなのでいいんでしょうかね。

日本という狭い国においても、天下を取るという人というのは相当常人じゃないはずなんだけど、今の清盛は、武家の棟梁であるにもかかわらず、喜怒哀楽が激しいし、当然そういう人物について行かない人も出てくるわけで、そういう人が天下を本当に取れるんだろうかと思うのです。特にテレビの清盛を見てる限りは、頭に来れば人を殴ったり怒鳴ったり威嚇したりするような人が、とても人の上に立てるのかという疑問を感じてしまうのです。

この清盛は、武家の世の中を作るということで、亡き父もなしえなかった公卿になろうと頑張っていき、結局公卿の頂点である太政大臣になるものの、その後の朝廷との軋轢(具体的に言えば後白河天皇との確執)、源氏の台頭ということもあり、平氏は結局壇ノ浦で滅亡するというのは、歴史的にもよく知られている。

清盛が天下を握ったときは、平家にあらずんば人にあらずという、清盛が頂点にいたときはそこまで世の中を支配したけれども、武家のくせに公卿になったということで、後世の歴史家からはあまり評価はされてないし、滅びるべく滅びたという印象が強い。

それはどういうことかというと、簡単にいえば、天皇や公卿が政治をしても自分勝手な政治しかしないということで、もっと突き詰めれば、平安期の日本政治があまり評価されないのは、藤原家が自分たちだけの繁栄のためだけに政治をしたということだし、その点平清盛を見ていると、後白河天皇にしても、鳥羽法皇にしても、後白河天皇にしても政治家として全く大局観がないし、それを補佐する藤原家も同様で、こういう人達が実権持ち続けられるわけがなく、結局清盛が覇権を持つということなる。

ところが、この平家も急速に公家化することで、野性的な源氏に倒され、その源氏も北条執権家に政権を取られる。ちなみにこの北条家は平家なので、征夷大将軍に離れなかったのですが、この北条家も貴族化して、足利尊氏に打倒されます。そのきっかけを作ったのは後醍醐天皇で、北条家打倒後も建武の新政と称して勝手な政治を始めたことで、武家が離反し、結局足利尊氏に倒される。

その足利家も、国内統治をする力がないため、守護大名が台頭し、結局応仁の乱が始まり、それがきっかけで日本は戦国時代になり、織田信長が登場して新しい時代を切り開くも、明智光秀に倒され、その明智を倒した豊臣秀吉が天下を取ります。その秀吉も武家として政権を敷く事ができないためと言うよりも秀吉が源氏ではないということは、当時でも周知の事実だったので征夷大将軍として幕府を開くことができないために、朝廷より豊臣という姓を賜って、公卿となり、関白として政治を司るけれども、結局徳川家康が実力でのし上がり、その徳川家も明治維新で薩長に倒されるということになります。

竜馬がゆくに「200年以上も日本のことを考えずに徳川家の繁栄のみを考えてきた政権を倒さなければ日本のためにはならない。だから倒す」というセリフが(もちろん、司馬さんの創作ですが)ありますけど、政権が倒される理由というのままさしくこの点は、古今かわらない気がする。

特に平安以来の公家が1000年近く政治に携えられないのは、こういうところが背景にあるんだろうし、「勝てば官軍」というように強いところに味方をするという実に節操のない人たちという烙印が押されているので、武家が政権の担っていたときは政治に関与が出来なかったし、明治維新後も、日本の総理になった公家出身者は西園寺公望と近衛文麿だけだし、彼らにしても、前言を平気で翻すというところがあったらしく、それだけでも世間から信用されなくなったという経緯がありそうだね。人としてどうなの?という感じです。

あたりを聞いてみたい。

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